Kotist, Composer & Arranger Nozomi Miyanishi

- 宮西 希 オフィシャルサイト -

(1)コトって琴?箏?

箏と琴

皆さんがコトと聞いて想像する楽器は「琴」ではなくって、実は「箏」なんです!
「琴」「箏」って、まったく違う楽器なんですよ!

大きな違いは「柱(じ)」と呼ばれる、まん中にたくさん立っているブリッジがあるか、ないか。
「琴」は柱がなく、絃を押さえる指のポジションを変えることで音の高さが変わる楽器。つまりスチールギターのような感じです。一絃琴・二絃琴・七絃琴・大正琴というのは、まさにこれにあたります。
これに対して、柱を動かすことで音の高さを変えるのが、「箏」です。

そもそもは「琴」というのは、昔は絃楽器の総称でした。実際、源氏物語の中では「箏(ソウ)のコト」「琴(キン)のコト」「琵琶(ビワ)のコト」という記述があります。
そのうち「箏のコト」が1番ポピュラーになってそれが独立して、結果的に今の箏のことを「コト」って呼ぶようになったみたいです。
ちなみに「琵琶のコト」もちゃんと1人で独立して「琵琶」になりました。

でも、どうしてこの「琴」っていう漢字が、正式には正しくないのに、使われるようになってしまったのか・・・?
これはただ単に、常用漢字に「箏」という字が含まれていなかったからなんです。
今では、「箏」も常用漢字の仲間入りをして、ワープロでも変換できるようになりましたが、まだまだ世の中では「琴」だと思って疑わない人も多いんです。
「箏曲」について
  普通箏を演奏する方は「箏曲演奏家」という肩書きになりますが
  箏曲というのは「楽器」のことを指すのではなく、伝統的に伝わる
  箏で演奏するための「楽曲」のことをいいます。





これが箏です。1番スタンダードな形。





琴(これは一絃琴)です。
ぜんぜんチガウ楽器でしょ?




箏の歴史

そもそも1番最初に日本にKOTOがやってきたのは、奈良時代。
中国から朝鮮半島経由で、管弦合奏スタイルの「雅楽」の中で使われる楽器である「楽箏(がくそう)」として伝わったのが最初です。(楽箏は今現在も雅楽の中で使われています。)

その後、室町時代末期に久留米の善導寺の僧『賢順(けんじゅん)』が、雅楽と「明の琴曲(中国の七絃琴)」に影響を受けて「筑紫(つくし)流箏曲」という音楽(今の箏曲の元のモト)を大成しました。

そしてそのあと、箏の世界の父とも言える『八橋検校(やつはしけんぎょう)』が登場します。彼は『賢順さん』の孫弟子にあたり、賢順が大成した筑紫流箏曲を大きく改訂し、当道制度(視覚障害者を保護する制度)に取り入れて「俗箏(ぞくそう)」として今の箏曲の基となるものを確立した、立派な方です。

彼は有名な「六段の調べ」を作った人でもあるのですが、この『八橋さん』の時代がどれくらい昔のことかを示すのによく引き合いに出されるのが「バッハ」。西洋音楽の父とも言われるそのバッハが生まれた年(1685年)に、この八橋さんは亡くなっているんだそうです。
つまり、西洋音楽が確立されるより前に、日本の箏の曲はしっかり確立されていたということになるのです。

ちなみに、八橋さんが亡くなった時に、彼のお弟子さんたちが八橋さんを偲んで作ったのが、京都のお土産で有名な「八つ橋」と言われています。生八つ橋ではなく固い方ですが、あれは、箏の形をしているんですよ!

その『八橋さん』のやってきたことや作ってきた曲を、きちんと確立したのが孫弟子の『生田さん』。それからさらに5代あとの弟子で、新しいこと始め出したのが『山田さん』。
この『生田さん』も『山田さん』も、自分の名前で流派を名乗って「生田流」「山田流」としたわけなんですが、『八橋さん』は「八橋流」って名乗ってもいいくらいの功績なのに、後世の弟子達の名前の方が有名になってしまいました。
そのまま今現在も、箏曲の世界は「生田流(いくたりゅう)」と「山田流(やまだりゅう)」の2つの流派として確立しているんのです。『八橋さん』って、ちょっとむくわれないよね・・・。

そしてその後、箏は上流階級の人達の教養として、盲人音楽家によって指導されるようになったのですが、明治時代に、当道制度(視覚障害者を保護する制度)が廃止されて、箏曲は一般庶民に広まるようになったのです。
同じ頃に、日本には西洋の文化が入ってきました。そこで大きく音楽性も変わったのですが、それまでに作られた曲を「古典」と表現することもあります。


大正時代や昭和の初期には「春の海」で有名な『宮城道雄』が大活躍しました。これまでの邦楽に西洋音楽を取り入れて、新しい音楽をたくさん作曲しました。
この『宮城道雄』さんも目が見えませんでした。実際は6歳頃まではかすかに見えていたそうで、そんな小さい頃に見たものの記憶でも、たくさんの名曲を残しました。「春の海」も、かすかに覚えていた海なんでしょうね。

それまでの「箏曲」は目の見えない方々が口伝えで人に教えてきたので、譜面はなかったんです。口伝えですから人によって違って伝わったりしたのでしょう、現在、同じ曲でも派によってかなり違うんです。

そこで、この箏曲の世界で譜面を考案し、『宮城道雄』作品を採譜したのが『筑紫歌都子』(ちくしかつこ)。
彼女はバイオリニストを目指していた方で、音感が良いだけでなく西洋音楽も分かるし、箏も弾くし、作曲もする。彼女が考案した譜面は、西洋音楽の譜面を元にした、縦書きの譜面でした。『筑紫歌都子』もその後、『宮城道雄』より更に西洋音楽の影響を受けたたくさんの作品を作り一派を築きました。
現在では、洋楽出身の作曲家もたっくさんいらっしゃるし、こんな「Kotist」まで出現してしまったのです・・・。



こ〜んなKotist!!
かついでいるのは「ソプラノ箏」という小さい箏です





(2)KOTOの種類へ続く